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固有のいのちの否定

 昨年起きた例の「酒鬼薔薇聖斗」の事件の時もそうでしたが、こうした時、必ずといっていいほど出てくる言葉があります。「いのちの大切さを教えなければ・・・。」
 ぼくはそのたびに、暗澹たる気分になる。空しいのです。言葉になんの中身も感じられないからです。彼らがおかれた状況に対するイマジネーションも、無自覚にそういう状況を作ってきてしまった大人としての自分たちの責任も、なにも踏まえられていない…。
 いったい、大人たちのどれほどがお互いの固有のいのちを「大切に」生かしあっているでしょうか。いのちよりも、金? それとも地位? 名誉? それは、まさに今頃になってなお、みずからの生存権に関わる「介助」の問題で、ひとりで悪戦苦闘を続けることを余儀なくされているぼくら障害をもつ者の姿を見れば、明らかです。
 子供を競馬馬のようにゲートに一列に並べ、偏差値で競わせる。親たちは子供が机の前に座っていれば、一安心。その上せめて礼儀正しく、お行儀のよい子であれば、なお安心なのです。生きる、ということを中身として何も伝えていない。十数年前、「校内暴力」や「家庭内暴力」という形で子供たちの反乱が起こったときも、結局はそれをまともには受け止められず、管理を強化するなどの表面的な対応で押さえ込んでしまっただけでした。
 いわゆる登校拒否や、いじめの陰湿化などは、その結果として起こってきたようにぼくには思えます。それは教師たちの責任であるだけでなく、親たちの責任でもあるのです。
 「きれる」、「むかつく」などというとき、今の子供たちは必ずしもその特定の対象を持たない、といいます。相手が見えないのです。それどころか、「弱い自分」、「よい子になれない自分」に対する嫌悪感をたえずもっている。固有のいのちの否定の、なんという極み! ナイフなどを持ちたがるのは、そこから逃れたい一心からなのです。そこにまた、わかりきった「注意」がきてしまったら、いったい、どうなるか。
 そこまで子供たちを追い込んでしまったのはだれなのか。子供は、たえず大人たちを写す鏡でもあるのです。

1998年03月10日